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2010-02-20

雲門三句

雲門宗には雲門三句があります。
1)函蓋乾坤。
2)截断衆流。
3)随波遂浪。
これと違うバージョン(注1)も存在するのですが、意味は一緒なのでここで触れないことにします。

「函蓋乾坤」とは時間と空間、モノとココロ、ココロと体、主観と客観の区別がなく、一体になること
です。人間の心も含めて存在するあらゆるものをひっくるめることです。観察する私と観察される対象
はともに消えて「ひとつ」になります。十牛図の8―人牛倶忘に当たります。

「截断衆流」とは妄想を止めることです。そうすると、偏った見方をせずに物事をありのままに見ること
ができます。存在するものは私なしで現成することです。十牛図の9―返本還源に当たります。

「随波遂浪」とは大悟した人間は「俺だけは違う人間だ」と思わずに、再び俗世に入って悩んでる人を助
けることです。ここで大事なのは自分の好意を人に押し付けをせずに、ケース・バイ・ケースに対応する
ことです。十牛図の10―入鄽垂手に当たります。

難解な「雲門三句」も十牛図を手掛りに考えれば意外と分かりやすいです。

注1
雲門三句:函蓋乾坤。目機銖兩。不渉萬縁。


2010-01-15

禅のヒミツ5

◆天人感応―テレビモデル

「意識というモノはて宇宙のいたるところに満ちている。(チャンネルさえ合えば)人間の意識として現れる。人間はその意識を用いてすべてを知りえる」

六祖慧能『六祖壇經』「心量廣大,遍周法界,用即了了分明,應用便知一切。」

宇宙の意識はどうやって人間の体に入ってくる仕組みはテレビの受信に似ている

私はそれを「テレビモデル」と呼ぶ

テレビとは画像と音声を電気信号に変換し、離れた場所に送って、見たり聞いたりできるようにするシステム

宇宙はテレビタワーに当たる

人間の体はテレビに当たる

純粋体験は電気信号に当たる

そして、宇宙が飛ばした「純粋体験」という信号を離れた場所で、人間が受信する

テレビが仮想現実を映るように人間の周りに世界を現前する

昔はこのことを「天人感応」と呼ばれた

人間は迷い世界から悟り世界へ入りたければただ「チャンネル」を変えればいい

迷いも悟りも人間というテレビの中に併存している

どの局を映るかは人間のチョイス次第である

それでも

なんで宇宙に意識があるって分かるの?

人間が生きる実感のある世界をテレビに映る映像と音声に例えるのは妥当じゃないのでは?など

疑問はたくさん残る

「テレビモデル」もあくまでも説明のためのものであって、あまり深く考えないほうがいい

禅は哲学ではないって前文で述べたはず

宇宙と人間は「純粋体験」によってリンクしている
2010-01-15

禅のヒミツ4

◆ヒミツを解くカギ―純粋体験

「知る(感じる)ということは禅のすべてのヒミツを解くカギである」

―神会『神会語録』「知之一字。衆妙之門。」

「声がかってに聞こえる
ものがかって目に入る
五感と触覚は自在に働きを果たす
体を動かして様々な用件をこなす
いったいその奥にだれがすべてを仕切っている?」

―廓庵和尚『十牛図頌(并)序』「図3見牛」


純粋体験と言うといかに難しそうに聞こえるけど、要は頭で考えずにありのままに感じていることをさす

自然になにかを見る時

自然になにかを聞く時

自然になにかを感じる時

努力して見ようともせずに見えてくる

努力して聞こうともせずに聞こえてくる

ここで、バンって言う大きな音を聞こえたとしよう

そのバンっていう音は私の心の中にあるのか?それもと私の体の外にあるのか?

要はその素朴な体験を即す限り、音がしたというコトは私の中でも外でもないところに起きた

そのような理性が働く前に人間が感じることを純粋体験と名づける

「純粋体験」の定義をあまり深く考え込んだらいけない

もともと定義しようがない「感性の世界」のモノだから

考えるより感じてください

体験してみてください

きっと納得してくれるはず

ここで大事なのが「純粋体験」は私の「体験」ではないことである

「純粋体験」は現前である

世界が自ら開示する現前である

強いて言うならば、宇宙の意識である

ここで「強いて」という言葉を使ったけど、本当に表現しようがない

理性でとうてい理解できる事柄ではないからだ

要は私の体験だと思い込んでる「純粋体験」は実は私の体を使って宇宙が自ら現前しているのだ

何回も繰り返すが、このことは決して厳密に語ることができない

「厳密に」するためにどうしても理性を頼らざるを得ないから

しかし、「純粋体験」は理性の管轄外にある

強引に語るとかえってたわ言みたいに聞こえる

宇宙の意識はどうやって私の体に入ってくるの?しかもまるで私の意識のように

この質問は次章に答えていきたいと思う
2010-01-15

禅のヒミツ3

◆コトのほうが先

「悟りも迷いもただこの心次第である。この心は宇宙が誕生した時から存在する」

―黃檗希運『傳心法要』「諸佛與一切眾生。唯是一心。更無別法。此心無始已來。」

大ざっぱに分類すると世の中にモノとコトしかない

モノとは具体的な物質をさす

コトとは物質Aと物質Bの関係をさす

例えば私はテレビを見ている

私は物質A

テレビは物質B

まずは「物質Aと物質B」というモノが二つあって

物質Aと物質Bの関係は(AはBを)見ていること

これは常識である

しかし、禅の考えは違う

まずは「見ていること」というコトのほうが先で

次に見ている私=物質A

と見られているテレビ=物質B

が分化する

要するにモノ(物質)よりコト(関係)のほうが第一次的である

絶対的なコトに対して、モノの存在は相対的である

興味のない人にとって別にどうでもいいと思われるかもしれないが

モノは二次元の世界に対応するに対して、コトは一次元の世界に対応するから、この順序はとても重要

哲学は二次元の世界を扱うことができるけど一次元の世界になると無力である

この一次元の世界を扱うものこそ禅である

禅の世界に存在があっても物質はない

あるのは現前しているコトだけ

「私と私以外のモノ」ではなく「存在しているすべてのモノは私である」
2010-01-15

禅のヒミツ2

◆悟りは理屈ではない

「(禅というものは)言葉で説明したり、理性で考えたりするとかえって見失う。言葉による解釈と理性による

分析をやめると常に禅に通じてる」

―僧璨『信心銘』「多言多慮。轉不相應。絕言絕慮。無處不通」

「禅は言葉、理性、二元的なものを超えている。感じればはすぐそこに禅がある。理性で分析しようとしたとた

んに禅から遠ざかっていく」

―黃檗希運『傳心法要』「超過一切限量名言縱跡對待。當體便是。動念即乖。」


よく禅を哲学と混同する人がいるようだが、禅と哲学はぜんぜん違う

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、哲学とは
* 知や智の探究を意味し、学問全般を指す。
* 前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題につい

て論じて研究を進める学問の一種。理性的な思考自体も研究対象になる。また、そのような思考を通じて形成さ

れる立場も哲学と呼ばれる

私が指摘したいのは哲学の定義の中で「理性的な思考を通じて・・・研究を進める」というところだ

禅と哲学の一番違うところは「理性的な思考」を使うかどうかだ

例え問題意識は同じものであっても、方法論は根本的に違う

哲学は「理性的な思考」で世界を理解する

禅は「体験・感性」で世界を理解する

「理性的な思考」は「体験・感性」を元に構築していくものである

日常生活の場面を即して考えていただきたい

 屬覆が飛んできた」とまず気づく・・・体験

◆嵬邉絅棔璽襪澄廚伴,貿Ъ韻垢襦ΑΑν性

「危なかった」と最後に分析する・・・思考

「理性」を持って理性より前の段階にある「体験」を分析することはできない

「理性的な思考」を通じて、「悟り」の研究を進めば進むほど「悟り」から遠ざかっていく
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